何もかも、今に始まったことじゃない。

ウルトラマン好き。めっちゃ好き。

俺はこれからも、こうやって生きていきます。#25『彼方の光』

めっちゃ久しぶりです。

最近やること多くて大変だったんです。

なんなら前回の記事で力を使い過ぎてます。

さあ行きましょうか、見届けないといけませんね。

 

ウルトラマンデッカー』

第25話『彼方の光』

これは「始まりを告げる物語」である──。

その光に『果て』はなく。

『トリガー』という過去があった。そんなトリガーにも超古代があったり、それよりもっと前のアボラスバニラが封印されるような時代もあった。

『デッカー』という今がある。そんなデッカーにも未来があって、その先ではデッカー・アスミとその仲間たちが戦っている。

 

僕らが半年間、25話かけてみてきたのは『過程』だ。『結果』じゃない。もしかしたらこの先凄惨な出来事が待ち受けてるかもしれないね。絶望で満ち溢れているかもしれないね。でも、そうでなければ寂しいと僕は思う。それで終わってしまうのはどうにも物悲しい。もっと一緒にいたい。僕らが見られない26話からその先の未来は彼らは生きているのに。25話を経て僕が掴んだのは『信頼』だ。この先彼らなら絶対に負けたりしない。そう思わせるくらいの希望が満ち満ちている。

 

本作における時間の解釈はほんの少し特異だったと思う。過去に介入したら未来が変わるのではなく、全く別の世界が創造されるという解釈。スフィアを倒したところでそれはアガムスが未来から連れてきた存在なのであって、今現在のスフィアは健在だ。今カナタたちが生きる世界の未来にはスフィアがいて、アガムスがいる。酷なことだと思う。本当に残酷だと思う。恐らく地球はスフィアとの再戦を強いられるし、もしかしたらアガムスと再会することになるかもしれない。そこにいるアガムスは無垢で、カナタの知らない全くの別人と言ってもいいだろう。カナタがその時代まで生きているかもわからないし、デッカー・アスミにウルトラマンの力を託すのがどのタイミングなのかも判明していない(もしかしたら間に別の変身者を挟むかもしれない)からアガムスと出会うことはないかもしれないけど……僕はその悲痛さに耐えられそうもない。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。

それでも人は歩んでいく。一歩一歩進んでいく。きっと、僕らの想像するより速いのだろう。

『何が出来るか探し続けて 誰かの為に走ってるんだろ』

アスミカナタは自分のしたいことを終始探し続けた。最初は衝動的に戦うことを選んだが、だからこそその先を思い描いた時、青空を取り戻した自分が次に何をするのか考えなきゃいけなかった。

『見上げた空の向こう側まで 超えていこうと決心したんだろ』

遥か広がる無限の宇宙にはたくさんの仲間が、友達がいる。会いに行かなきゃいけないんだと僕は思う。それがアガムスとレリアの『夢の果て』だ、そうだろう。そうじゃなきゃ、僕は苦しくて仕方ない。

 

『握り締めた『勇気』って光 その強さを感じて』

『一人一人持っている想い 出会う度に感じて』

デッカー・アスミもまた勇気ある男だった。アガムスを救うのは自分でなければいけないはずだとカナタに出会うまでそう思っていたはずだ。向かい合った時間だけでいったらカナタより長かったかもしれない。なのに、それでも、アサカゲ博士を想うカナタを信じて託した。その先の未来でアガムスが救われたのかを知る術はない。カナタのいる過去はもう全く別の世界なのだから。その尊き譲渡が、まるで儀式のように恭しく行われたことを僕らは知っている。ダイナミックはカナタだけの姿だ。だがそれが完成じゃない。その先を生きていくから、色んな人と出会って別れて成長していくから何処までも強くなれる。

 

輝く想いを熱く燃やし、限界さえぶち壊して奇跡を起こす。

これは「始まりを告げる物語」である。

 

最終回を経て、やっと始まるのだ。

楽しいことだけじゃない。自分の弱さや罪

と向き合わなきゃいけない日が来るかもしれない。傷つくだろう。泣いてしまうだろう。心細くなるだろう。嫉妬してしまうだろう。でもそんなことは、何もかも、今に始まったことじゃない。

ニュージェネレーションクロニクルという番組を覚えているだろうか。『R/B』から『タイガ』までに放送された総集編を主体としたものだ。ブースカとペガが豊かなゲストと共にモニターを通して新世代の軌跡を追っていく。

そんなジェネクロのOPにこんな歌詞がある

『物語はまだ始まってないよ 気付いてるでしょう?』

僕はこの言の葉が好きだ。ウルトラマンギンガが降り立ったあの瞬間から10年に渡って展開されてきた物語群の全てはまだ始まってすらいない。これから芳醇な歴史を創り上げていくのだ。だから怖がることは何もない、そう思う。

怖くない。寂しくても、怖がることはない。僕がカナタの未来を憂う必要なんて何処にもないんだ。悲しいことも苦しいことも全てが『生』で、それを取り除いちゃいけない。どんなに強い敵が相手でも大丈夫。挫けても折れても大丈夫。これは感想とかそういうのじゃない。僕が僕に言い聞かせる言葉。何も怖くないんだよ。嫌がることはないんだよ。お別れの傷も、いつかは癒えるから、本当に、本当に、本当に、怖くないんだよ。こんな記事書きたくねぇよ。だって書いたら本当に終わっちゃうんだもん俺にとってのデッカーが。劇場版があったってそれだけの話だよ。この寂しさは埋まらないよ。毎年毎年埋まらないでけー穴だけが増えていくんだよ。痛いよ、痛くて痛くて死にそうだよ。死ねないよ、どんなに痛くても、昨日の出会いを振り返ったら暖かいんだもん。明日の出会いを願ったら楽しくて仕方ないんだもん。でも今の別れは辛いんだよ。忘れられない痛みが増えることが、即ち生きることだっていうのなら、それを今後ずっと背負っていかなきゃいけないっていうのなら、いつか僕は壊れてしまうかもしれない。僕が本当に怖いのは、デッカーを愛したこの気持ちが風化してしまうかもしれないことなんだよ。傷は時間の経過で治るかもしれないけど、そしたら全部忘れちゃうじゃん、それが嫌なの。傷がいつまでも傷であってほしい。

それが僕の希望になるよ。だからせめて僕はこの記事を書く。傷を自分で抉る。忘れてしまわないように刻み込む。情動を憎まない。そしたら少しくらい恐怖と仲良くなれるのかもしれないから。

ウルトラマンであるということ。

ガッツセレクトのみんながいる。戦う力なんて仲間と培った絆だけでいいね。その絆が「ウルトラマン」でしょう。僕はウルトラマンを『現象』と考える。再起したテラフェイザーやナースデッセイ、ガッツグリフォンと共にマザースフィアザウルスに挑む状況そのものが『ウルトラマン』であり、『ウルトラマンデッカー』なんだ。マナカケンゴが湛えたその優しさは未来永劫咲き乱れていくことだろう、カナタだって同じ。その勇気はもう消えたりしない。だったら僕が全てのウルトラマンを愛した時間も生きるのかもしれないから、嗚呼、また沢山のモノを貰ってしまったな。

 

火星からみんなが戻ってくるラストは奇しくも『ウルトラマンサーガ』と重なる。それは本当に美しくて、心から祝福したくなる未来だ。もっと一緒にその世界を生きていたかったけど、どうやらそういうわけにもいかなく、僕には僕の生きるべき世界があるらしい。帰りを惜しむ幼児のように、されどその出会いに感謝しながら、僕はまた今日も生きていかなきゃいけない。

 

前回に引き続き全く本編の話をしなかった。なんか毎年この時期は嫌になる。ウルトラマンとの別れに慣れない。この記事は僕とウルトラマンデッカーの折り合いで、お別れの言葉。いつかこの日を笑えたならとっても素敵だと思う。それが成されたなら、傷はもっと高尚で崇高なものになるかもね。尽きない言葉を尽くすのが僕の仕事で、今は満足できた。また明日紡ぐ言葉があったなら、それは明日したためればいい。今はこれでいい。

 

ありがとう、さようなら。また会えたらよろしくね、ウルトラマンデッカー。