何もかも、今に始まったことじゃない。

ウルトラマン好き。めっちゃ好き。

ありがとう。#24『夢の果て』

みなさん如何お過ごしでしょうか。どうでもいいですね。

 

今日は前置きなしで行きましょう。

 

たまにくる情動だけで筆を全力疾走させるロジックの欠片もないクソ記事です。

 

ウルトラマンが好きです。これまでも、これからも。


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ウルトラマンデッカー』

第24話『夢の果て』

いつかの光が、ようやく届く。

正直に白状します。

僕はウルトラマンデッカーという作品の持つ面白さとその本質を全く理解できていませんでした。そして理解できていないということはこの記事を読んでくださっているみなさまにそれらをお届けできていないことを意味します。本当に申し訳ありませんでした。

自らの愚かさをようやく理解できたのは今回の話、『夢の果て』があったからです。

 

敵と和解する作品は少なくありませんし、それらに優劣がつけられるわけでもありません。ですが、カナタとアガムスの和解が既定路線であるように思えた僕はなんとなーく甘えた気持ちで作品に向きあってしまっていました。恥ずかしい。カナタの言う綺麗事に絆されたアガムスが味方になってテラフェイザーと共にスフィアに立ち向かうのだな……と考えていたのです。今回の作劇はどうだったでしょうか。最後は綺麗事じゃなかったんです。果ててしまった夢の末路をようやく認めたアガムスが、情動で叫ぶ。カナタはその激しさを身体で感じて、こちらもまた叫ぶことで未来への活路を切り開きました。

今だけは言葉を捨てて。

言葉で言い表せることはたくさんあります。むしろ言わなきゃ伝わらないことの方が多いし、僕らは何かを伝えるために言語を習得したのでしょう。僕はそれを信じて今此処にいます。ですが、言葉では表せないことも勿論存在します(文章を書く僕にとっては認め難く、極力そうあってほしくないとは思いますが)。「夢の果て」とは一体何を意味する言葉なのでしょうか。僕にとっての「夢」とは、言い換えれば「欲望」なのだと思っています。少年が純粋な瞳で願う将来の夢も、大人が野望を抱いて突き進む夢も変わらず同等に欲望と言えるでしょう。そこに貴賎はありません(倫理的な善し悪しは別として)。人間は無限とも言える欲を持つ生物です。「新商品のグミ美味しそう!食べたいな」という気持ちだって規模の小さな欲だしもしかしたら夢と呼べるのかも。僕が此処で言いたいのは欲望がそうであるように、「夢は果てるものではない」ということです。ひとつ満たされたら次の欲が生まれ、若しくは欲を満たすまでの間にまた別の欲が生まれ満たそうとする……際限はない。

 

では夢が果てるタイミングとはいつでしょうか。僕にはひとつしか思い浮かびません。

「死」です。

人は死んでようやく欲の輪廻から解放されます。或いは死が欲望の終着点の人もいるかもしれません。アガムスの妻であるレリアは「いつか地球に行きたい」という夢を持っていました。この記事の定義で言えばそういう欲望を抱えていました。「夢」は崇高な響きがある反面「欲」は醜悪な語感がしてどうにも書きにくいですね。同義であると言い出したのは私自身なのに、でもそんな不安定ささえ明確な命題として私の前に立ちはだかっている。閑話休題。「夢の果て」とは即ち「レリアの死」です。果てることのない夢が朽ち果てました。物悲しいね。果ててほしくないのにね、夢なんて。残された人々は果てた夢の残骸を手に、何処へ行けばいいのでしょう。これは各個人が持つべき自由回答欄なので僕がどうこう言う筋合いないね。死人の言葉を曲解するのもアレだけど、でもそれ以上増えようのない言葉を自分の中で反芻させてしまうことの何を罪と咎められましょうか。このクソ記事を読んでくださっている方はわかって頂けていると思いますが、俺自身番組の一部分を頭の中でこねくり回して肥大化させてしまうゴミ人間の例に漏れないので、アガムスの暴走を他人事だと思えませんでした。悪役の生き様と捉えてしまうことは逃げでしかない。

朝の光と、夜の影。

僕の好きな漫画、『呪術廻戦』より引用させていただくと「愛ほど歪んだ呪いはない」らしい。言い得て妙。まさにアガムスの有様はこの通り。僕がかつて書いた記事の中の幾つかを読んだ友人も歪んでいると言ってきました。嫌だね。歪みがあってやっと人は人足りえるんじゃないのか。カナタが歪んでないのか? ケンゴが歪んでないのか? んなことねぇだろ。歪んでる方向が社会的善に値するだけだろう。悪しき自分も肯定したトリガーはそのことをよく吟味した上での作劇だったと思う。漠然としていた「アガムスを救う」という言葉が今回でやっと重力を帯びた。僕の中で意味を持った。別に救われたいと思ってるわけじゃないはずだ。それはベリアルだってジャグラーだってトレギアだってそうだった。「救う」には何処か優越を感じざるを得ない。上から目線でわかったようなことを言うんじゃねぇという話。ところがデッカー・アスミにとってアガムスに手向けるにはそう形容するしかなかったのかもしれない。むしろそうとしか思えない。

 

ウルトラマンには「そう形容するしかなかった」場面が度々、それも重要なタイミングでやってくるように思える。敢えてダイナから引用しよう。

 お前が何者で、何故俺たちの為に戦ってくれるか知らねぇ! でも! この星のこと

 が好きなら! 人間を、俺たちの仲間を嫌いじゃなかったら! もう一度立ち上がっ

 てくれ!

人気怪獣レイキュバスが登場する有名な回『移動要塞浮上せず!(後編)』でヒビキ隊長が放った熱いセリフだ。この回はそれぞれの隊員が自分にできることを最大限にこなし、その上でダイナの復活を願う素晴らしい話だ。アスカにとっても行方不明になった父親を幻視し、再度立ち上がる重大な回。セリフだけを切り取ると非常に傲慢ですよね。でも「そう形容するしかなかった」。僕はこのセリフが凄く好きで、こうして書いている間もなんだか目頭が熱くなってきてしまいます。ウルトラマンという存在がどれだけ人類に友好的で仲間として信頼できる仲であったとしてもその関係は実に一方的なものです。ウルトラマンが人を助けている図式は変えようがない。人がウルトラマンを助けたってそもそも戦う理由が人間を守る為なんだから当たり前だろ!と言われても仕方ない(ザ☆ウルトラマンで人類がU40を救う展開はあるけどね)。で、ヒビキ隊長はそのことをよーーーーーーーーーくわかっているんですよね。だからわざと傲慢な言葉選びをしている。たとえこの場面でダイナが再起しなかったとしても隊長はそれを嘆くことはしなかったでしょう。次にできる最善を試みたはずです。「俺たちが傲慢な自覚はある。そんな俺たちを好きでいて友になってくれるならもう一度戦ってほしい」、そしてダイナはその言葉に応えます。それがウルトラマンと人間の関係なんです。醜くても、愚かでも、それが今ある形。

そうすることしかできなかった。

自分でも驚いています。普段通りの記事を書けばいいタイミングでこんなことを喚き散らしてしまうのですから。どうして泣きながら書いてるんだ。最終回手前なんてエモいこと言って引いときゃいいのによ。溢れる情動が止まらなかった。それだけ面白い話だった。心の片隅に屋根から滴る雨垂れのように蓄積されたカタルシスがカナタとアガムスの叫びで解き放たれてしまった。もっと話すべきことはたくさんある。マザースフィアザウルスの圧倒的な強さとかケンゴの正体バレとか。ようやくスフィアバリアが壊れたのに触れてすらいない。なのに今の僕はこのことしか語れない。いや語ってすらいない。こうして文章に起こすことで整理しているに過ぎない。で全然整理されてない。むしろごちゃってる。嗚呼不条理だこのクソ世界は。

 

「大分覚えたね……地球の言葉」

 

アガムスが紡ぐ情景を並べる言葉はバズド星の景色をスフィアの影響下でも忘れないためのもの……というのは決してミスリードなどではなく勝手に僕ら視聴者が勘違いしていただけだったと思います。疑いすらせずそうなんだと思ってました。でも違う。レリアの果てた夢の、残骸。いつか地球に行って、その景色を見たいという欲望。その為の言葉。嗚呼どうして、どうして夢は「死」で果ててしまうのだ。誰かが覚えていれば永遠なんじゃないのか。誰かが継げば悠久じゃないのか。こんなの残酷すぎるじゃないか。もしかしたら地球に降り立ったところで人類の醜さを目の当たりにしたかもしれない。汚染された環境を見て絶望したかもしれない。だがそんなことは問題じゃない。全ての可能性を奪われたことが何より酷なんだ。抱いてしまったこの吐き気をどうすればいい。この情動が救われることはあるのか? 無理だ。果てるわけがない。僕はこれからも生きるから。

でもまあ大丈夫。

これは『ウルトラマン』だ。

最後まで諦めず、不可能を可能にする

幾度となく僕を救ってくれたヒーロー、ウルトラマン

僕の絶望を優しく包んで愛してくれる。だから僕はウルトラマンに焦がれるのだ。

 

普段に比べて随分異質になってしまったがどうか御容赦願いたい。

今の俺にできる最大のリスペクトで、向き合い方がこれだ。


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もう胡乱な言葉は必要ないだろう。

僕らは彼方へ進む、光の速度を超えて。

次回、最終回『彼方の光』