何もかも、今に始まったことじゃない。

ウルトラマン好き。めっちゃ好き。

そんなに人間が好きになったのか、ウルトラマン。 /シン・ウルトラマン感想

『シン・ウルトラマン』を観た。


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この記事がどのタイミングで書き上がり、アップされるかはわからないが、5/13(金)の公開初日に三回観た。

初回はIMAXレーザーと呼ばれる最新技術を駆使した上映形式

二回目と三回目は通常上映

池袋ではどうやら爆音上映などもやっているようなので、いつかのタイミングで観てみたいと思う。IMAXは映像音声共に最高の映画体験となっている、一度観たという方もぜひIMAXで観劇してみてもらいたい。没入感が段違いだ。

一日で三回も同じ映画を観るのは初めてだったので体力面が心配だったが、エナジードリンクでドーピングして、しっかり飯を食ったらギリギリなんとかなった。若いっていいな。

グッズも沢山買った。金を惜しまずに色々買った。数か月後には埃を被っている可能性を考慮して、それでもめっちゃ買った。それだけ応援したかった。

 

まあそんなことはどうでもいい。

 

この記事では僕の感想を書いていく。ネタバレなどの配慮はしない。未見の人は読まないでほしい。というか、誰かに読ませるための文にはきっとならないだろう。謂わば備忘録だ。今後Twitterやネットの記事を読んでいくと僕の感想は薄まっていく。誰かの言葉に上塗りされてしまう。人とはえてしてそういうものである。だからそうなる前に書く、僕の言葉のセーブ地点。初日の深夜に、眠い状態で綴る仕方のない文章。それでもいいなら読んでいけばいいと思う。僕には僕の『シン・ウルトラマン』があって、君には君の『シン・ウルトラマン』がある。どうかそのことを忘れないで。

 

この日を待ち望んでいた。

 

僕は齢二十と数年の人間だ。ウルトラマンが凄く好きで、所謂円谷信者。ずっと、ずっっっっとウルトラマンを追いかけてきた。色んなウルトラマンを見てきた。愛してきた。それで、最初に言いたいことをここに述べようと思う。

 

初めてだった。

必死に命にしがみついて醜く生きようとするウルトラマンの姿を見たのが。

 

初めてだった。

死んで、そのまま帰ってこないウルトラマンの顛末を見届けたのが。

 

滑稽だったと思わないだろうか、プランクブレーンから全力で逃げ切ろうとするウルトラマンの姿が。玩具のように弄ばれて、呑み込まれそうになる姿が。必死だった。生きようとしていた。たった一つの生命に縋っていた。その直前に「人間の存続が最優先」などと言っておきながら、それでも生きようとした。僕は怖かった。ゼットンが崩壊すると同時にウルトラマンを呑み込もうとするモノクロの渦が、おぞましい音楽と共に僕らに見せつけるのだ、「ウルトラマンも一つの命でしかない」と。二回目観た時は憐れんだ。三回目観た時は咽び泣いた。普段は威風堂々と屹立している巨人がなりふり構わず生きようとするその姿を見て、悲しく、つらく、絶望し、嗚咽を漏らし、吐き気を催させ、頭痛を引き起こすまでに僕を追い詰めた。そんなに生きたかったんだ。そして直後に彼は死ぬ。僕は何もかもが理解できなくて、嫌になった。生きたいと願った存在が死亡する、それは本人が望んでいたことであれ、僕は認められなかった。嫌だった。そして二回目に思った。

 

ウルトラマンが生きようとしたのは、神永にその命を与えるためだったのでは?」

 

見終わって考えて、少しだけ泣いた。出てきた言葉は「そんなに人間を好きになったのか、ウルトラマン」。だってそうじゃないか。僕らは彼に何かをしてやれていない。ずっと守ってもらっていた。それだけなのに、質量保存の法則を無視して、宇宙の隅の惑星の真ん中に「愛」が生まれた。彼の故郷ではそれが罪であるらしい。ならば地球は罪の星だ。十字架を背負って生きていこう、堂々と。

強いから微笑むのだ。

ウルトラマンは死んだ。ゾフィーは二つ命を持ってきてくれなかった。必死に生きようとしたウルトラマンの信号をキャッチして掬い上げただけだ、それもゾーフィが。その信号も他人の生命の為だったかもしれない。何処に救いがあるのだろう。あの世界から「ウルトラマン」は取り上げられた。でも実はそれって現実でも同じで、僕らの隣にウルトラマンはいない。最後の最後に、フィクションは現実をリンクさせてきた。絶望した。希望を持てと言われても難しい話だ。そしてエンドロールに入って、主題歌が僕に訴える。「姿見えなくとも 遥か先で見守っている」。らしい。らしいよ。ふざけんなよ。頭痛い。俺が願うから姿を見せてくれよ。お願い、傍にいてよ。隣にいてよ。優しく微笑んでよ。一緒に戦ってよ。辛いことを共有してよ。共に喜ぼうよ。励ましてよ。応援してよ。支えてよ。手を繋ごうよ。光を頂戴よ。いてよ。傍にいてよ。いなくならないでよ。遥か先じゃわからないよ。見えないよ。好きだよ。愛してるよ。だからお願い傍にいて。離れないで。いなくならないで。僕、貴方なしじゃ生きていけないんだよ。お願い。お願い。

 

涙を拭って、深呼吸をした。

 

身体中の体液が涙になって飽和してしまったのだろうな。だったらいつかは涸れるだろうか。僕はこの映画をずっと楽しみにしていた。僕はウルトラマンをまた一から愛したかったし、ウルトラマンから愛されたかった。結果から言おう、無理だった。だって僕はウルトラマンを千も億も愛してしまっていて、それは不可逆のステータスだったからだ。僕は昔からウルトラマンを知っていて、ずっと好きでいたから、今更初めましてだなんて言えなかった。ウルトラマンが死ぬことはウルトラマンの喪失を意味していた。初めての経験だったから、まるで親を見失った赤ん坊のように取り乱してしまって、今も暗闇に手を伸ばして愛しい人の姿を模索している。そこにはもういないのに。神永には幸せになってほしい。難しいだろうけど。きっとハードな検査が続くだろうね。一生拘束されてしまうかもしれない。それでも生きている。生命は等価交換らしい。この映画は浅見がラストで「おかえり」と言い、その次に続く言葉がカットされて終わる。「おかえりなさい、神永さん」だったのかもしれないし「おかえりなさい、ウルトラマン」だったのかもしれない。どちらでもいい。どうでもいい。言葉が続いていたこと、それ自体に意味があって、価値がある。だって世界は終わらないのだ。俺が観測できないだけで続いていく。神永はどんな人生であったとしても生きていくんだ。僕はこの映画を観ることができたなら死んでもいいと思っていた。だが、必死に生きたウルトラマンを見て、ウルトラマンが生命を神永に繋ぐ場面を目撃して、「生きなきゃいけない」と考え直した。死ねない。ウルトラマンが神永に託した命は、僕がウルトラマンから受け取った命でもある。ウルトラマンは神永だけを愛したわけじゃない。人間を信じて、愛して、託した。傲慢でも構わない、僕はウルトラマンに愛された。三回目にそう思って、僕の心は晴れ間を見せた。

知りたいから対話をする。

色々考えていた僕の姿を見て、三回目に一緒に観た大学の先輩は本作を『カルト映画』と称した。勝手に泣いて勝手にキレていた僕が異常だったので、申し訳ないことをした。また誘って一緒に観たいと思う。嫌がられても無理に連行する予定だ。

正直に言って大衆ウケはしないと思う。オタクは好きだろう。『シン・ゴジラ』にはなれない。ゴジラを期待した人々を平気で裏切る作品だ。でも、それでも僕はこの作品が好きだ。観続けたら壊れてしまいそうだが、それだけ感情を揺さぶられる良い作品だということだ。

 

ウルトラマンは人間になろうとした。なりたいらしい。僕は狂いそうになった。僕らはメタ的な意味でウルトラマンに憧れ、ウルトラマンになりたい!と願っていた。その為に玩具を買ったりする。ウルトラマンもまた同じように考えていたのだ。人間になりたいから、その為に見識を深め、本を読み、人と触れ合った。人間のことを知りたいと思って、わからなくて、わからないのが人間なのだと理解して、でもそんなこと僕にとってのウルトラマンも同じで、だから僕は狂いそうになった。死を受け入れたのは、人間の為だ。人間を愛してしまった自分の為だ。自死が罪だというなら、そんなウルトラマンの選択も罪だ。わからないなら一緒に考えていけばいいじゃないか。ゾーフィ、君も共に。愛されている自覚がなかった僕だって同罪だよ。みんなで償おう。やり直せるはずだ。

 

ここまできて言うのもあれだが、書くべき感想は腐るほどある。冒頭のQパートとか、ところどころに仕込まれたギャグとか、戦闘シーンのクオリティとか、キャラクターデザインとか。でも全部好きなので、あんまり語る必要性を感じなかった。全部好きなので。そういうのは他の人の感想を見ればいいよ。きっとそっちの方が楽しいから。僕の記事は汚い感情も含めた人間的な情動に筆を尽くす場所。

 

神永の遺体を見つめて何を想ったのだろう。ドッグタグを握って何を考えたのだろう。ウルトラマンの選んだ神永に命のバトンを託すという結末は、子供に命のタスキを掛けた神永の結末と見事に一致する。ウルトラマンは死を以てして人間になった。痛みを知るただ一人になってしまった。僕はウルトラマンの迎えた結末を歓迎できない。神永や人類を捨てて生きてほしかった。それだけ僕にとってのウルトラマンは愛すべき存在だった。だけど同時に僕は知っていた、ウルトラマンは人の痛みを見逃せない。ウルトラマンは人類を見捨てやしない。その優しさがあるから僕は好きなんだ。矛盾だ、ジレンマだ、わからない、だけどどうやらそれが人間らしい。どうして僕は人間なんだ。いや、ウルトラマンが死んでやっとなれた存在が人間なんだ、僕は人間ではないのかもしれない。だったら僕は誰だ。思考の渦で溺れかけた僕をウルトラマンは助けてくれない。だって隣にいないから。

 

ウルトラマンが隣にいない」がテーマなのは『ウルトラマンサーガ』だ。

「命は等価」は『ウルトラマンA』でやって

強大な渦からの逃避は『ウルトラマンダイナ』でやった。

善しも悪しも本人自身は『ウルトラマンオーブ』や『ウルトラマントリガー』。

ウルトラマンは神ではない」と言い切ったのは『ウルトラマンメビウス』。

探せばもっと幾らでもあるのだろう。その全てを統括するのがシン・ウルトラマンなのはあまりにも上手くできすぎているというか、数奇な運命というか、奇怪な呪いというか。シンは新であり真であり進であり信であるが神ではない。その絶妙な塩梅が、危険なラインを攻めているにもかかわらずこの作品の最大の魅力となっている。

その瞳は暖かく。

この文章は震える手で書いている。ラストのことにしか言及していないのに暴力的なまでに感情的な文字の羅列、後日読み直したら顔をしかめることだろう。僕をここまでおかしくしてくれたスタッフのみなさんには感謝してもしきれない。俺はこの作品を生涯愛し続けるだろう。僕の為に存在する映画なのではないかとさえ思う。同日に更新されたギャラクシーファイトはまだ見られていない。一人のウルトラマンの喪失に絶望する中で多数のウルトラマンを見てしまったら本当に精神が壊れてしまう、そんな気がしたから。

 

理路整然として、さもすれば伏線回収までするような素敵な記事を書けたら良かったと思う。それでシン・ウルトラマンの宣伝に繋がれば万々歳だ。でも今の僕には無理だった。もしかしたら明日の僕になら書けたかもしれない。朝起きた時の僕だったらできたかも。冷静にウルトラマンを見つめて、淡々と小ネタの解説をして、みんながわぁっと驚くような考察をできたならさぞ素晴らしい記事になったのだろうと思うが、今の僕は自分の情動をどうにかして保存しておきたかった。この感情が気化してしまうことを恐れた。あやふやにしておくことはできなかった。僕は曖昧模糊を好んでいたが、自分の気持ちがそうあることだけは許しておけなかった。愚かだ。くだらない。そしてそれが楽しくて仕方ない。ウルトラマンが好きだ。他の何も愛せない。ウルトラマンが好きだ。ウルトラマンを好きでいられる自分が好きだ。ウルトラマンが好きだ。僕はウルトラマンの為なら生きられる。ウルトラマンが好きだ。ウルトラマンが好きだ。ウルトラマンが好きだ。

 

嗚呼、僕はウルトラマンが好きだ。

ウルトラマンを好きで良かった。